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元つ話1091 自分が二つに分ける眼鏡をかけたことがすべての対立の始まり

2014-07-10 Thu : 長谷章宏語録 
善と悪がそれぞれ絶対的善、絶対的悪、ならば、『善悪はない』ことになる。なぜなら、絶対的なものには、対立、矛盾がないからである。絶対の世界に裁き合いはない。善と悪の裁き合いができるのは、お互いに、自分が善、相手が悪、と思っているからである。善は悪ともいえるし、悪は善ともいえる。つまり、善=悪、である。A=Bである。自らの保身に精一杯で、善の世界と悪の世界が同居し、お互いに反対の意味付けをしていることに気づかない。絶対善と絶対悪の世界は、善の世界であり、悪の世界ともいえる。ただ、相反するように見える、どっちで自分が生きているかの違いで、他が他を殺す関係の世界があるだけである。それを善、悪、とそれぞれが主張しているに過ぎない。その二つの世界は、もともと一つの世界を二つの見方で見ているだけである。二重規範がある世界である。どっちも善でも悪でもない。分離思考そのものが、戦いの基である。悪を作り出す基である。相手を悪に仕立て上げる基である。つまり、お互いに、悪の源は自分にある。自分にあるものを他人にあると思っているのは共通であるから、結局、自分も他人も悪かった、となる。二つの対立世界が並立して一つの道具を共有しているならば、その世界は奪い合いになる。基は一つである。道具も一つである。どちらにでも使える。自分にとって善にも悪にもできる。包丁は、料理にも殺人にも使える。対立しているのは、自分同士であって、それを直さない限り、一つになる事はない。本当は『善悪はない』のである。自分が二つに分ける眼鏡をかけたことがすべての対立の始まりである。お互いにそれを認めて、めがねを外せば、幻想から抜けられる。3Dの映画は、眼鏡を外せば、現実の世界に戻る。生き延びても滅びても、それは分裂した世界の中のお伽話に過ぎない。

     【実践・日本真道】 長谷章宏著より
                          
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