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元つ話 512 今まで「三次元」に生きていながら「二次元」のゲームを苦しんでいた

2012-12-08 Sat : 長谷章宏語録 
 皆さんの多くは「あやま知」という「宗教」に狂っている
多くの皆さんは、「教祖様」が言っていることや、「○○教」の言っていることや、「神様」という言葉が出てくるものや、「目に見えない世界」のことが出てくるものを「宗教だ」と定義付けしているようですが、皆さんの回りの人が言っていることや、皆さん自身が「世の中は甘くない」云々と言っているのも、すべて「宗教」なのです。
「人生どう生きるべきか」「自分の見たものをどう解釈するか」という表現のものを「哲学」と定義付けしているようですが、これもまた「宗教」なのです。そして、他でもなく、「これは哲学、これは宗教」云々、と定義付けしている皆さんのその定義自体が「宗教」なのです。皆さんは、その基準に従って、目の前のものを見て、解釈して、動いて、形にしていっているということですから、その結果は、すべて皆さん自身の責任です。
皆さんが、「宗教」を特別な人がやる神様ごとであるとか、「哲学」を単なる学問であるとか、人のやっていることを見て「変な宗教に狂っている」などと思っているとしたら、それも皆さん自身の「宗教」であることはもちろんですが、皆さんは大きな取り違いをしていることにもなります。実は、そういう「宗教」で、ある「宗教」(自分が認めていること以外の見方、考え方、「宗教」)を拒否しているから、皆さんは真実を知る機会もなく、未だに混乱の中にいるのです。神様から見れば、皆さんは、ご自分のなさっていることを全くわかっていないという証明を自分自身でしていることになります。
これは、今まで学んできたことでは、納得できないかもしれませんが、それは、今まで学んできたことが、そういうことに気づくことができない、まったくアベコベの「大きな宗教(あやま知)」だからです。つまり、納得できないということは、皆さんが「あやま知」を選択している証拠なのです。皆さんがこれを認めないと、話が進まないばかりか、この先の自分自身の人生にも大きな影響がでてくることになります。
ここに書いてあることと今まで学んできた「あやま知」とは「裏と表」の関係です。つまり、皆さんがここに書いてあることについて「批判」や「判断」を始めること自体が、「あやま知」に囚われている証拠であり、「あやま知」を選んでいることを自分自身で白状していることになるのです。「私は違う」と言っても、それも自分の正当性の主張ですから同じことです。
皆さんは本来、いちいち自分が何を選択しているかを人に説明する必要はないのです。皆さんの言ったこと、したことを「批判」したり、「判断」したりすることを始める人は、「あやま知」の中にいますから、それにまた反論するならば、相手と同じことをしているだけでなく、皆さんは永遠にその中から出られなくなります。
そして、皆さんが、そういうゲームをしている限り、もう一つの現実を見ることはできません。今回の分岐点は、一方をキレイサッパリ捨てて、もう一方を選ぶという「どっちの宗教に狂うか」という、どっちか一つの選択です。
 皆さんの外側にはもともと○も×もないのです。皆さんが「判断というゲーム」ができるのは、皆さんの内側に○や×を持っているからです。そして、その○や×は「ある」のではなくて、皆さんが「選んだ」ものなのです。皆さんが、○か×か何方かを選んでいるのです。ということは、皆さんの目の前のものには○と×の二つの見方がある(言い方を換えると、目の前のものには意味はない)ということになります。
 皆さんが「○×は外側にある」という「宗教」を選んでいれば、その現実がいつまでも続くだけです。実際は、皆さんが二つの見方の片方を選んで、それにしがみついているだけのことなのです。「見ているものは同じなのに相反する二つの見方がある」というのはオカシイことだと気づいてください。「あいつの方がおかしいんだ」と言ったところで、「相反する見方」の方は消すことはできませんから、悪しからず。
 皆さんが、今まで、半ば「しかたなく」「あるのが当然のこととして」やっていた、「議論」も「裁判」も「話し合い」も「喧嘩」も「戦争」も、すべて、皆さん一人ひとりの「内側の○×」が創りだす幻想ゲームだったのです。皆さんが、今まで、人から学んできたり、人に教えたりしている「あやま知」というのは「○か×か」の二元論であり、それにしがみついている限り、絶対に結論はでないのです。そして、それは、「当たり前のこと」でも「真実」でもなかったのですから、本来は「強制力」はないのです。「あやま知」の創りだした「恐れ」を使って、力という幻想を創りだしていただけなのです。
皆さんは、今まで、「三次元(立体)」に生きていながら、「二次元(平面)」のゲームを楽しんでいた(苦しんでいた)というわけです。そして、この先は、もう、そのゲームを続ける必要はないということを今ここで提案しているのです。あとは、皆さん一人ひとりが、どういう選択をするか、を決めればよいだけなのです。「でも~」と言うのは、「あやま知」の選択ですから、そのつもりで。

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