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元つ話 513 皆さんが皆さん自身をトリックに嵌めている幻想

2012-12-09 Sun : 長谷章宏語録 
 皆さんは一人残らず「宗教に狂っている人間」である
皆さんの人生には、「絶対に正しいこと」とか、「ありえないこと」とか、「現実ばなれしていること」とか、そういうものはありません。皆さんに、そういうものが見えているならば、それは、皆さんが、「自分の見ている現実の中で生きよう」「自分の見ている現実だけが正しいのだ」という枠を自分自身に嵌めて、その通りに行動している結果、そういうふうに錯覚しているだけなのです。皆さんが、自分自身の選んだ結果体験していることを基準にして、目の前で起きていることを「判断」しているゲームに過ぎません。
皆さんのその体験を創りだしているのは、皆さん独自の「宗教」であり、その「宗教」に枠があれば、皆さんの体験にも枠があることになり、その枠の外のものが現れると、「ありえない」「起きるはずがない」と見えるというわけです。「皆がやっているから」というのも「宗教」の一つですから、いやならば、選択する必要はないのです。
 皆さんが「ありえないから」といって、それを排除していると、皆さんの体験として、いつまでも「ありえない」ままになってしまうのです。
皆さんが、「現実は」「社会は」「常識は」と言っているものは、そういうものが「存在する」という幻想を皆さん自身が創りだしているだけに過ぎません。いわば、皆さんが皆さん自身をトリックに嵌めているようなものです。皆さん自身が「そんなことは起きるはずがない」という前提を決めて、すべてのものごとを処理しているのです。
皆さんが、「できるはずがない」と思えば、皆さんはそれをしませんから、いつまでたっても「できるはずがない」のです。「できるはずがない」理由も、これまた、皆さんが創りだしている幻想なのです。
この見方について、アレコレ議論をすることもできますが、永遠に並行線のまま、結論はでないでしょう。最後には、「こいつは宗教に狂っているから、言っても仕方ない」と言いだすのがおちです。その議論を創りだすのも、そういう結論を導きだすのも、皆さんが皆さんの選んだ「宗教」に狂っている証拠なのです。
皆さんが、目の前の何かを否定したり、批判したりしたくなったとしたら、それは皆さんが、そういう見方をしているだけであって、その「何か」は○でも×でもないのです。その「何か」に決まった意味があるとしたら、議論というゲームは成立しません。皆同じものを見ますから、議論の余地はないのです。
皆さんが「否定しているもの」は、存在します。皆さんは「自分が何かを見て否定している」という、その「何か」があることを忘れています。ですから、何を議論しているかといえば、その「何か」をどう見るかという、お互いの「見方(宗教)」の正当性です。皆さんがやっているのは、「あんたと私のどっちの見方が正しいか」「どっちの見方をする人が数が多いか」というゲームなのです。これは、この見方自体の議論についても成り立ちます。この議論は、どっちかが折れない限り、どっちかが肉体的にいなくならない限り、永遠に続くことになります。
皆さんがそういうふうに見ていること自体、皆さん自身の「宗教」そのものであり、皆さんは一人残らず、すべて「宗教に狂っている」のです。実際のところは、「心理学」も「哲学」も「宗教」も「常識」も「非常識」もすべて一つのものなのです。すべては、皆さんが、皆さんの外側にある「誰かが言っている意見」や「目の前で起きている出来事」を皆さん自身の内側の「基準」で分類しているだけで、すべて、「自分教」の正当性を主張する、「自分教」の押しつけ合戦に過ぎないのです。

                            章

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